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シクロクロスが好きなGIROの日記


by giro1965
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蘇我馬子と聖徳太子の死亡年

妻が突然、聖徳太子が死んだのは621年説と622年説があるといい、どちらが正しいか、考えてみた。どうも妻は自分のレポートの宿題を私にさせる気らしいが、こういう推理は大好きなので、ついついやってしまう。

私は、人気のない621年すなわち日本書紀に記載されている説をとった。以下の文章は私の推理であります。

さっそく情報集め


史実
618年隋滅び、唐興る
620年国史の編纂が開始された。「国記」、「天皇記」
621年新羅朝貢
聖徳太子死亡
623年新羅の使者が任那の使者をつれて朝貢

聖徳太子の死亡年になぜ複数の説があるのだろうか?621年説と622年説である。
死亡年なんて、この年に死んだ・・というだけでどうしていけないのだろうか?この二つのうち一つは正しかった。
当時は外交の混乱期であり、聖徳太子が死んだという情報は、新羅や任那にとって影響が大きかったので、正式発表を遅らせる必要があったという仮説を立ててみた。この仮説に矛盾はないだろうか?

隋が滅びて、これまでの聖徳太子らが取っていた親隋路線は根拠を失い、対立政策として、国内の安定と、親新羅路線が取られるようになった。蘇我馬子の路線である。これは外交政策の大転換である。これまでの皇族中心の政権は任那を日本領として復活しようとうする政策であった。しかし馬子はあっさり任那を新羅の属国であることを受け入れる。

そして当時の馬子が聖徳太子の家系をのぞいて最高権力者になるに際して、権力者が握る情報は、国家が握る情報はどのような意味をもつだろうか?

新羅にとってみれば、聖徳太子が生きている間は、任那を大っぴらに属国化sるわけにはいかないだろう。なぜなら、当時の政権は、朝貢領土としての任那を復活するのが最重要課題だったからだ。しかし隋の勢力が弱まり、唐と結ぶチャンスを得た新羅は、高句麗と百済に挟まれるのをさけるため、背後の恐怖として、日本を懐柔しなければならない。しかし、聖徳太子とその周囲の政権は任那を復興する夢を捨て切れない。

そこで現実的で老獪な馬子は、当然新羅をバックにつける。馬子は、新羅が正式に任那を属国化することを認める。そこに賄賂があったか、交易による利益があったのか、とにかく大きな権力と金が、新羅と通じることで手に入ったのだろう。

さらにそこで太子が死ぬ。その衰弱過程といった情報は新羅に馬子から伝わっていたはずだ。死因はどうでもいい。そして、推古天皇も、太子周囲の勢力も、この情報が新羅にわたれば任那を取られることは予想がついたはずだ。

ところが、馬子は他国はいざ知らず、新羅には621年に死んだことを早く情報を流した。そして、その情報を元に新羅は任那をおおっぴらに属国とする。実際にはすでに属国化してたのだろうが、今度は623年新羅の使者が任那の使者をつれて朝貢し、日本に新羅は任那を属国化したことを見せつけたわけだ。

朝貢の影の主役は馬子である。なぜなら、この作戦の情報源かつ、日本の他の勢力を抑えて、日本の出兵をさせなかった。そして他の国には情報を流さず、正式発表は1年遅れた。新羅の早い対応により、馬子に対立していた政治家は、既成事実によりなにもできなくなってしまった。なぜなら、新羅にこんなに早く情報が流れたはずはなかったからだ。

つじつまが良く合っていると考えらる。

日本書紀では、621年とされている。日本書紀は100年後に編纂された。推古王朝→蘇我王朝→天智王朝→天武王朝という政権交代の流れを考えると、日本書紀が書かれた天武王朝は、内政重視であり、100年も立つと621年当時は隠す必要があった情報も、もう隠す必要はなかったのであろう。

一方、釈迦三尊像光背銘。中宮寺天寿国繍帳は622年説の根拠である。これらは、まさに当時作成されたため、太子の死を隠したことを正当化しているにすぎないのではないか?

もちろん井沢元彦など別の説をいう人は多い。 

このあと天智天皇が白村江の戦いで敗れ、新羅はもはや日本への義理だてすらする必要がなくなったのだった。

さて、明日は桂川シクロクロスだ。
by giro1965 | 2008-01-19 21:32 | 歴史